フロイト「精神分析入門」読書会(第二講)
メンバーのべとりんです。連投させていただきます。
2016/4/22 23:00-24:00にSkypeで行われた読書会のレジュメです。今回は第二講を読みました。例によって、
02. フロイト『精神分析入門』第二講 錯誤行為 | 山竹伸二の心理学サイト
など、この部分の要約はネット上に転がっているので、そちらを見てもよいですね。
凡例 ・本の中の内容 ○ほかの資料からの情報 *レジュメを書いた人間のコメント
第二講「錯誤行為」
・錯誤行為とは:(P25L1-P26L12)
言い違い、書き間違い、聞き違い、読み違いなどのこと。これらは自分で気づくこともあり、気づかないこともある。
・なぜ錯誤行為のような些細なことに注目するのか?:(P26L13-P28L12)
探偵が現場に残した些細な証拠から重大な事実を引き出すように、こういった些細な事柄から重大な手がかりを得ることができる。学問上の仕事においては、身近にあるもの、すでに研究の道がついているものから始めるほうが期待が持てる。みなさんには、「健康な人が犯す一見つまらない錯誤行為の問題」に関心を持ってほしい。
・錯誤行為は単なる「不注意説」や生理的要因で十分に説明できるのでは?(P28L13-30)
・前提1:どんな些末な事象であろうとも、この世の全ての物事は、自然界の決定論によって説明できる。そうでなければ、学問的な世界観は破棄されてしまうことになる。(*錯誤行為も、法則性によって説明されなければならない)
・「不注意説」:錯誤行為は、軽い機能上の逸脱、心的作業の不正確というものであって、(1)その人に多少不快感があり、疲れているとき(2)興奮しているようなとき(3)注意がほかの事物に強く向けられているときに起こるものだ。
・錯誤行為を「不注意説」だけで説明することはできない(P30L14-P33L10)
・ほんのわずかの注意力しか払われていないにもかかわらず、まったく自動的に、きわめて誠実に成し遂げられている仕事も少なくはない
・錯誤行為という不運の多くは、しくじりをしないようにと注意しているときにこそ起こる。
つまり、必要な注意力を絶対にほかに逸らしていない時にこそ起こる。
・これらのことから、錯誤行為は「不注意説」だけでは説明できず、この理論を完璧なものにするためには、「なにか」を補わなければならないことが分かる。
・言い違いについて、「なぜわれわれはこの言い違いをして、他の間違った言葉を口にしなかったのか」を考察してみる(P33L11-P36L2)
・言い違いについてのメリンガーとマイヤーの考察:(P34L6-P35L5)
・正しい言葉が言い違いによって歪曲される仕方を区別して、前後の入れ替え、音の先走り、語の遺留、混交および代用、に分類した。
・メリンガーとマイヤーの説明は全く不十分である。
・最も頻繁に起こる言い違いは、「一つの言葉の代わりに、ひどく(音が)似た言葉が口をついて出ること
・最も卑近な、最も目立つ種類の言い違いは、自分の言おうと思っていた言葉の正反対のことを言ってしまうこと。当然、音響上の関係はないが、意味の上からは強い親近性がある。
・こうした対立と同じように、よく言い違いを招くのは、何かある熟知した(意味上の)連想の場合である。
・以上のことから、音の類似性だけでなく、語の類似性、語の連想の影響を加える必要がある。
・それだけでなく、言い違いを考察して、うまく解明するには、その前にどんな文章を言ったのか、あるいは少なくとも、考えていたかということを考慮しなければならない
・言い違いの例を振り返って得た新しい印象(結論):(P37L2-P38L10)
・「言い違いの効果」自体を検討する決心を固めると、以下のことが言える。
・言い違いの実例の一部では、言い違いが表明している内容そのものに意味がある。
すなわち、言い違いの結果起こったことは、それ自体の目的を追求している一個の独自な心理的行為であり、またある内容と意味とを表現するものとして理解されてしかるべきものである。
・錯誤行為そのものも、それ自体において意味ある一つの行為であって、それはただ予期され、意図されていた別の行為にとって代わったものに過ぎないと思われる。
・(ある)言い違いは、やはりある意味では、ある別の、筋の通った願望の表現。
・次の講への導入と詩人の例(P38L11-最後)
前提2:もし言い違いや錯誤行為の大部分のものがある意味を持っていることが分かったとする。
→錯誤行為のあらゆる生理学的ないし精神生理学的な要素は捨ててしまって、錯誤行為の意味(意義や意図)について純心理学的な研究をしても良いことになる。
・そこで、このような視点に立って、(次の章から)相当数の観察材料にあたってみることにする。
・過去の詩人たちも、言い違いに「意味」を込めている。
・言い違いは古くから「表現」として認められていた。
*「願望」という表現について
フロイトの「願望」は、かならずしも私たちが日常で願望という言葉を使うときと同じ意味を指しているわけではないと思われる。フロイトの言う「願望」は、本人の体感的には「私の願望」であるとは限らない。むしろ、「私にとって、私の意思ではないと体験されるもの」であり、「私ではないにも関わらず、私を操ってくる力」として経験されるものだろう。これは第三講、第四講などより詳しく取り扱われているように思う。
私が思うに、現象学においては、《自分の身体がそれによって「動かされる」と感じられるような力》と記述されるようなもののことを、精神分析では「願望」と呼んでいるのではないか。